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−美術教育学の立場から−
○水島尚喜先生<美術と子ども 造形行為の社会性をめぐって>


 従来アートや表現というものは、自分の内なるものを外に向かって表出していくものだという認識のうえに成り立っていた。しかし近代以降のアートというのは、“内から外へ”というONE WAY的な形式ではなく、様々な社会性とインタラクションということがキーワードになってくる。あらかじめ作家が作った結果としてではなく、相互関係の中で作品が生成されていくのである。
子どもにとっての作品は、ONE WAY的な表現メディアではなく、まさに社会と対話するための双方向な媒体なのである。

*グローバリゼーションの動きの中での「越えるべき境界線」について 術教育学という観点から

水島先生: 世界中の子どもの絵を見ていて実感できることは、「心の琴線にふれて境界線を乗り越える」ことが出来るという事です。更に言えば、他者との共通点を見つけて、「境界線を共有する」というアプローチが、美術教育という観点から可能だと思っています。



−日本文学の立場から−
○大塚美保先生<文学は社会とどうつながるのか?>


 かつて文学というのは、社会から「人間や社会を望ましい形に成長、発展させてゆくための導き手」としての役割を期待されていた。現在は「文学離れ」が起きており、文学が社会で生き残れるか、ということが言われている。しかし、「物語」というのは、「人間が、自分たちの共同体、自分自身と自分を取り巻くこの世界、宇宙について、それはなぜ、今このような姿で存在しているのだろう、と考え、説明する、その説明のこと」である。いわゆる「物語」を語ることは、人間の持つ根源的な欲求の一つであり、「物語」を考えることは、人間を考えること、そして人間の社会を考えることなのである。

*グローバリゼーションの動きの中での「越えるべき境界線」について、日本文学という観点から

大塚先生:文学の立場から言えば、まさに「境界線を越えていく」ことは、文学を成り立たせる基本的な力です。「今ある状況を越えていきたい」ということは、人の持っている根源的な欲求であり、人を物語らせる要因なのですから。



−倫理学の立場から−
○遠藤徹先生<個人と社会の境界線>


 現在はとかく、「境界線」が明示されない時代である。個人と社会の境界線が失われる形態において、現代に特に関連して言えるのは、キルケゴールが指摘するように「個人の埋没」ということである。「マスコミ」は特に個人間における境界線をなくし、個人の集合を巨大な「塊」(mass)にするよう作用している。この現状に対して、私たちは、自分の思想、倫理を確立し、「個」を大切に守りとおすことをしっかりと心に刻み込むべきである。人がかけがえのない「ただ一人」として立つためには、この世の相対性を超越した絶対的真理、あるいは神の前で自分の存在を吟味することが必要となってくる。

*日本人の倫理観や、ボランティア精神の確立の方法について

遠藤先生
:提案したいのは、当然やらなくてはいけない、と思っていることを「自然に、素敵なかたち」で、気付いている人たちが実践していく、ということです。素敵であれば、周囲の人たちが、「自分もやりたい」というようになっていく。倫理も相互関係の中で築かれていくものと思います。



−教育情報学の立場から−
○永野和男先生<人とものの境界線>


 人間はいつも物を認識するプロセスにおいて、「接面」を意識化している。しかしこの認識は、「道具」と「機械」の発達により揺らいできている。「道具」とは、人間の能力を拡大し、対象から人間にフィードバックを与える物として考えられる。この「道具」としてのコンピュータは、「情報を入手し、判断し、働きかけ、作り出す」というプロセスを人間に要求し、常に人間に考える力を求めてくる。さてこの情報で注意する点は、「接面」がないということである。例えば、自分の発信した情報はどういった影響を与えているかが実際には見えないこともある。しかし今や情報はすでに「もの」としての価値を持っており、この情報化社会においては、情報を見抜く眼、情報処理能力、そして情報の「接面」、いわば境界線を意識化することが重要になってくる。

*IT化から予想される今後の問題の中に、「個性の喪失」があるが、情報化社会によって個人が「塊」になる可能性について

永野先生:コンピュータの専門家でも脅威に思えるようなウィルスやネット犯罪も多発していますし、こうった例から見ればネットワーク社会は「マス(mass)」に見えるでしょう。しかしラッキーなことに、インターネットは初めからフェースtoフェースの関係で機能するような仕組みを持っているんですね。だから私は、ネットワーク社会は、個人の力をもっと発揮できるように働いていくと思っています。



−英文学の立場から−
○小堀玲子先生
       <個人と社会の境界線ははたしてあるのか>


 英文学のさまざまな流れからみると、フィクションにしろノンフィクションにしろ、作家は「経験したこと」を芸術的に伝えることを目的としている。古典主義とロマン主義の対比から考えると、古典主義というのは「知性、良識、判断力」を社会のmajorityにてらして考えることを重要視しているのに対し、ロマン主義は、人間がfreeであり、emotionalである存在であるとして、「個」を重んじている。しかし実は両主義の真髄にあるものは、文学は「たとえどんなに個人の経験を表すとしても、社会と個人における根源的な問題をつきつける」ということなのである。英文学の立場から考えると、個人と社会の境界線というのはないと思われる。

*グローバリゼーションの動きの中で「越えるべき境界線」について

小堀先生:グローバリゼーションと一言に言っても、もし文化とか宗教とか、長い歴史のなかで培われてきたものがみな一つに解け合うことを考えているならば、それは幻想に過ぎないでしょう。差異を超えて、互いに認め合い、尊重しつつ競争していくということがグローバリゼーションならば、そのためにはどんな努力も惜しむべきではないと思います。