1号館

 大学の記念碑的校舎、1号館。竹腰健造(たけごしけんぞう)氏の設計で、1950(昭和25)年に竣工。当初は3階建て、延べ6,148m2でしたが、その後、北棟、4階部分の増築を経て、1952(昭和27)年に現在の形となった地上4階建ての校舎です。

 特徴的な正面玄関は、卒業生・在学生なら誰しも、いつの日も少し身の引き締まる思いとともに扉をくぐるという趣を今も保っており、玄関をくぐると中庭の第3回生の植樹(1953年)による銀杏の木が、皆さんを静かにそして暖かくお迎えします。 さながら、200年前のマザー・バラの言葉 「お入りなさい。部屋の扉も心の扉も、いつも開いていますから」が、今も息づいているかのように。
 現在は、日本語日本文学科、史学科、哲学科、国際交流学科の研究室があります。また2階には専攻課程に所属する前の1年生を支援する1年次センターが置かれており、他にメディア学習支援センター(1階)、保健センター(1階)、学生相談室(2階)、レクリエーションルーム(学生ラウンジ/1階)などが置かれています。


1年次センター


レクリエーションルーム


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 最初の記念すべき落成式は1950(昭和25)年、4月22日挙行され、仮聖堂で降福式の後、一同は1号館屋上に上りローマ教皇使節フーステンベルグ大司教、土井大司教によって祝別が行われました。聖堂完成まで東棟1階が仮聖堂となりました。竣工当時、1階は学長室等の管理室、2階は普通教室、教授室、3階は寄宿舎でした。

 現在の1号館は、中央が中庭で「ロ」の字形に教室や研究室が配置されており、開学当時の面影をとどめている歴史ある建物ですが、完成当初は北棟がなく「コ」の字形の3階建てでした。また、当時は3階部分が寄宿になっていましたが、その後、寄宿生の人数が増え、4階部分を増築しました(中庭側から南棟をよく見ると、3階と4階の間の部分に継ぎ目があるのが分かります)。これら一応の竣工は1952(昭和27)年3月ですが、7月に4階部分に体育館を、翌年3月に2階階段教室を設置するなど、仕上げが遅れたのは、資金不足のためです。なお、教室のフローリングに使用されているのは楢材(ならざい)です。

 1号館の北棟(3階建、各階676m2)は、建設当時はサイエンスウィングと呼ばれ、1階は化学、生物学、物理学の実験室、2階は教室、演習室、3階は寄宿舎でした。

 現在の1号館は、北棟1階にメディア学習支援センターやコンピュータセンター、マルチメディア実習室などの情報関係の教室が置かれています。その他1階及び2階より上の階には、日本語日本文学科、哲学科、史学科、国際交流学科の各研究室およびゼミ室、メディア学習支援センター、保健センター、レクリエーションルームと呼ばれる学生ラウンジ等があります。

 3階は現在、教員の研究室になっていますが、開学当時から現在の独立した学寮ができる1970(昭和45)年頃までは寄宿舎として使用されていました。現在、内部は2つの部屋を繋げて1部屋として使っていますが、当時は1つひとつ独立しており、内部には、ベッド、机、ロッカー、洗面台が設置されていました。洗面台には鏡が取り付けてありましたが、初代学長マザー・ブリットが、若い娘の学生を身だしなみにおいても、きちんと育てるのに必要と考えて取り付けたものです。

 中庭は、開学当時は今のように木が繁っておらず、日当たりの良いスペースでした。中央の大きな銀杏の木は第3回生の卒業記念植樹が育ったものです。この中庭では各種の学校行事、宗教行事が行われ、学生の憩いの場ともなっていました。

 本学は、都心とは思えないほど緑が濃いのも特徴です。しかし、開学当時の空中写真などを見ると、今ほど多くの木々に囲まれていたわけではなく、卒業生の記念植樹などにより美しい木々が増えてきたものです。

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 本学の第1回生でイタリア文学者の須賀敦子さんの著作「本に読まれて」に収められている「松山さんの歩幅」という文章には、学生だった須賀さんが、ヒルデブランド・フォン・ヤイゼルというドイツ人神父の教会建築史の講義に熱を上げていたと書かれております。
 ある時この神父が、自分がいたドイツの修道院の天井がどれほど高いかを理解させようと躍起になったあげく、当時新築だった教室の天井を見上げて、「こんなちっぽけな、こんな思想のない建築物で暮らしていたら、きみたちはこれぽっちの人間になるぞ」と叫んだという逸話が紹介されております。
 そのヒルデブランド・フォン・ヤイゼル神父は当時、学生たちから「ヒル神」と呼ばれていて、講義の名称は正しくは「典礼学」、そして使われたのは、215か216教室と思われます。
 先述のとおり、3階南側のフロアは現在、教員の研究室になっておりますが、開学当時から学寮ができる1970(昭和25)年頃までは寄宿舎として使用されておりました。須賀敦子さんは最終学年を354、355、357のあたりの、上級生用の一人部屋の1つで過ごしました。著作の『遠い朝の本たち』に収められた「しげちゃんの昇天」という文章の中には、卒業後の自分の進路について思い悩んでいた当時の須賀さんの部屋を、幼馴染のクラスメートである、しげちゃんが心配して訪ねてくる場面が描かれておりますので、その一節をご紹介します。
 「卒業試験もおわり、がらんとした図書室に私は行って、在学中は逃げまわったラテン語文法まで読んだりして、時間をかせいだ。家に帰るよりは、一生、本にすがりついていていいと、だれかがそんな許可をくれないかと、そればかり願っていた。それでも、できたばかりの大学院に来ないかと先生たちに声をかけられても、十六年もいたこの学校からはできるだけ遠ざかりたいと思うだけだった。私たちの世代の女子学生の多くがそうだったように、本を読むことが、職業につながるとも考えず、結婚以外に女としてほこりをもって生きる道はすべてとざされていたような、たよりない、暗い、閉ざされた日々だった。
 卒業も間近なある日、しげちゃんが、新しい校舎の四階まで私に会いに来てくれた。私の個室のドアが半びらきで、私はそれによりかかっていて、目のまえに私よりちょっと背のひくいしげちゃんがいた。どうして、そんなに反抗ばかりするのかな、と彼女は言った。私もわからない、でも、なにもかもいやだ、そう答えると、しげちゃんは言った。でも、だいじょうぶよ。私はあなたを信頼してる。ちょっと、ふらふらしてて心配だけど、いずれはきっとうまくいくよ、なにもかも。彼女の真剣な表情と、あかるい彼女の声と、ちょっとキザなあの言葉を、一年後によその大学の大学院へ行ってからも、フランスに留学してからも、イタリアで結婚してからも、なんども思い出した。」
 なお、この中で4階とあるのは3階の誤り、また須賀さんが個室の半開きのドアによりかかるという描写があるのは、他の人を自分の部屋に入れてはいけないという規則があったためだと思われます。

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