聖心女子大学の奥行きを知る
研究者として横顔をご紹介するとともに、研究の意義や楽しさを語ってもらいました。聖心女子大学の魅力をより深く知るために役立てていただきたいと願っています。
研究テーマ | : | 西洋13世紀における神学の成立とアリストテレスを中心とした哲学受容の関係、トマス・アクィナスの倫理思想、現代社会や科学技術に関する倫理学的諸問題(医療倫理、生命倫理、環境倫理等) |
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著書 | : | 『哲学の歴史〈第3巻〉神との対話―中世 信仰と知の調和』(共著)中央公論新社 『教養の源泉をたずねて』(共著)創文社 『トマス・アクィナスの倫理思想』(共著)創文社 『自然法における存在と当為』(共著)創文社 |
「宿題」(詩集『二十億光年の孤独』より)
著者:谷川俊太郎
翻訳:川村和夫
W.I.エリオット
出版社:集英社
神様は目に見えない存在だから、人は祈るときに目をつぶります。でも、ヨーロッパの神学者たちは目を見開いて神の問題を考え出した。「宿題」は、ぴったりそのままなので、研究室に座右の銘として掲げている詩です。
「てつがくのライオン」(詩集『てつがくのライオン』より)
著者:工藤直子・詩 佐野洋子・絵
出版社:理論社
「とても美しくて、とても立派(りっぱ)」な哲学のすがたを教えてくれるお気に入りの作品です。哲学には姿勢が大切だということがよく分かります。
中世ヨーロッパの思想のなかでも、キリスト教の信仰から出発して神を理解し認識する「神学」と、人間の理性に基づく哲学との関わりを研究している加藤和哉先生。お父様も西洋哲学の専門家だったことから、子どものころから哲学は身近な存在だったという。しかし、先生が大学入学時に志していた学問は意外にも哲学ではなかった。
「当時は父親と同じ道に進むことには抵抗感がありました。学者としての道ではなく、社会学や語学を学んで国際的に活躍したい、と思っていたのです」
ところが、現代社会や世界の問題に目を向けたとき、歴史をたどって根本から考え直さなければ、本当のことは分からないということに気づかされる。幼い頃から哲学が身近にあった環境が、先生に“そもそも根本はどうなのだろう?”と問い直す資質を育んでいたのかもしれない。
現代を根本から見つめ直すようになると、先生はギリシア・ローマ時代に始まりキリスト教につながるヨーロッパの大きな思想や社会の流れを理解したい欲求にかられる。それなくしては根本を問うことはできないと思ったのだ。そこで、ギリシア哲学から学び始めた先生は、ヨーロッパの12、13世紀を中心とした中世時代の哲学と出合い、その魅力に惹かれていく。
「長い間、この時代の哲学はヨーロッパでも評価されていませんでした。哲学といえばまずギリシアですし、中世というのはキリスト教に押さえつけられ、あまり思想の自由がない時代だと考えられていました。しかし、私は『本当にそうだろうか』と疑問に思っていました」
中世ヨーロッパは、キリスト教の教えが人々の生活にまで介入し、社会の基準がキリスト教になっていた時代だ。ところが11、12世紀に入り、十字軍などをきっかけにして、イスラームとの交流が始まると、ヨーロッパの人々は新しい知識や文化に大きなショックを受ける。なぜなら、その内容のなかには従来のキリスト教の教えと合致しない、自然観や人間観なども含まれていたからだ。
「この時代は、神学と言われていた学問が、むしろ哲学に近かったと思います。それまで聖書をよりどころとしてきた神学者たちは、ギリシアやイスラームと出会ったとき、哲学という武器を使って神の問題に挑戦していくようになったというのが、私の一つの見立てです。信仰にとって大切なものは、救いや神の愛の問題だとする考えや「神の前で謙虚であれ」と説くのが普通だった時代に、人間はどこまで神のことを考えられるか、に挑戦しようとした人たちがいたのです」
そんな中世という時代を「思想の自由がない時代」ではなく、むしろ「思考の限界に挑戦していた時代」と捉えるのが先生の見解だ。
「神は本当に存在するのか、存在するのならば、どういうふうに存在するのか。そうした神の存在に挑むことは、自ずと存在とは何か、神とは何か、という問いにつながり、結局は人間の思考能力の限界や世界の成り立ちが問題として表れてきたはずです。私は、根本を見究める哲学の問題として神について考えていた当時の神学に興味を持ったのです」
それ以来、神学という名の哲学に挑み続けてきた加藤先生。現在の目標は、これまで先生が進められてきたさまざまな研究を、一冊の書物にまとめることだそうだ。
先生デザインによる猫の絵が描かれた哲学科のパンフレット、リーフレットとCD
哲学者の仕事というのは「ある物事に隠れている問題を暴き出すことだ」と語る加藤先生。そして哲学を「一つの学問ではなく、一つの知的な態度」と定義する。だからこそ先生の関心は多方面に及ぶのだ。そのなかで先生が最近関わっている、生命倫理について訊いた。
「最近の医療は遺伝子にも手を加えることができて、治療ではなく人間改良なんじゃないか、というような面もある。治療する立場から見ると、それを望む人がいるのだから幸せなことだ、と先へ進んでいこうとします。でも、哲学の立場からは、そもそもそれは考え方としていいのだろうか、という視点を持つわけです。そのような哲学者の考えを提示すれば、最新の医療にストップをかける事になるかもしれませんが、医療の現場にいる人たちには立ち止まって考える時間がないのも事実です。もちろん最終的に、その答えを出すのは哲学者ではなくて、現場の人間や社会が受け入れるかどうかです。私たち哲学者の仕事は、根本的な真理を妥協なく求めること。そうして導き出したものの見方を現場の人に、考える材料として提供するのが役割だと考えています」
マスメディアでもしばしば取り上げられる、難しい生命倫理の問題。先生は「倫理学演習」のゼミでも、この問題を取り扱っている。
「例えば臓器移植や安楽死、尊厳死など、テーマは学生に自由に出させて、ディスカッションを中心として行っています」
授業は、具体的なテーマをただ話し合うのではなく、さまざまな角度からテーマを掘り下げ、問題を投げかけて展開していく。「自分で考えてみないと哲学にならない」という先生の考えがそこに表れている。
「学生には、問題に対して答えを求めるのではなく、発見しながら深めていってほしいと思う。例えば脳死臓器移植がテーマだったとしても、単にそれがいいか悪いかだけではなく、そのような問題を引き起こしている背景や仕組みにも目を留めてほしい。これは、100年前にはあえりえなかったことで、選ぶのは個人個人であるけれど、実は現代社会の大きな仕組みや科学技術の特性によって誘導されてしまっている面もある。問題は複雑に絡まりあっていて、一つの問題を解決するだけではすまないのだから、問いを投げかけながら深めていく、それがまさに哲学だと思います」
加藤先生の対話形式や討論形式の授業では、自分の狭い考えに留まらずに、異なる時代や文化、そして異なる意見と対話する力も身につけてほしい、という思いが込められているのだ。
先生の学生時代のノート。先生はラテン語の原文を切り貼りして、訳文を自分で作っていた。
授業では、真剣に学ぶことのおもしろさを伝えたい、と考えている加藤先生から、高校生の皆さんに向けメッセージをもらった。
「私は学生時代“無駄な”勉強をたくさんしました。例えば学生同士の自主勉強会をしたり、先生や大学院生と一緒に夏休みの合宿でラテン語の本を読んだりと、専攻決定や卒業に直接役に立たない勉強がおもしろかったのです。だから、学生の皆さんには単位や資格を取るための勉強以外に、純粋に勉強したい、と思うことに取り組んでほしい。それでなければ、おもしろみがありません。何かの目的のためではなくて、何かが分かりたいとか、何かを明らかにしたいという気持ちから、学ぶことの楽しさを味わってください。そういう知的な楽しみ方を知っている人は、それが一生の財産になると思います」