聖心女子大学の奥行きを知る
研究者として横顔をご紹介するとともに、研究の意義や楽しさを語ってもらいました。聖心女子大学の魅力をより深く知るために役立てていただきたいと願っています。
研究テーマ | : | 近世文学(俳諧) |
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著書 | : | 『近世中期の上方俳壇』和泉書院 |
[蕪村句集]
『古典名作リーディング1 蕪村一茶集』
著者:揖斐 高
出版社:貴重本刊行会
『蕪村俳句集(岩波文庫)』
校注:尾形 仂
出版社:岩波書店
『風呂で読む蕪村』
著者:藤田真一
出版社:世界思想社
韻文を読むためには、時間と心のゆとりが必要ですが、日常生活の中でそれを確保するのはなかなか難しいことです。そこで句集はいつも「旅のお供」にしています。一句一句について想像をめぐらせるのは楽しく、一冊あれば十分なので、荷物も軽くて済みます。
松尾芭蕉と言えば日本を代表する俳人で、代表作は「古池や蛙(かはづ)とびこむ水の音」、ということくらいは多分、経済学部の学生でも工学部の学生でも知っているだろう。だが、専門家の高い見識はこの超メジャーな作品が秘める意外な事実を教えてくれる。
「この句は『蛙(かはづ)』という春の季語を用いて、禅的な静けさの中に春の訪れを感じさせるもの、という理解が一般的だと思います。でも当時の和歌や俳諧の常識に照らすと『蛙』はその鳴き声を詠むのが半ば決まり事でした。ところが、芭蕉の『蛙』は鳴かず、池に飛び込む音によって春を寿いだわけで、当時としては非常に大胆でユニークな句と言えるのです」と説明してくれたのは、まさに松尾芭蕉を輩出した江戸時代の俳諧を研究テーマに掲げる深沢了子先生。といっても深沢先生の研究対象はワケあって松尾芭蕉“以外”だとか。
「松尾芭蕉は江戸時代前期を代表する超メジャーな俳諧師で、研究者もたくさんいます。ところが芭蕉以外の俳諧師となると、ごく一部の芭蕉門人を除くと、江戸中期に与謝野蕪村が登場するまでほとんど誰の名前もあがりません。芭蕉と蕪村の存在が大きすぎて、この間は“俳諧の暗黒時代”と呼ばれていたくらいです。それで、どうせやるなら競争相手が無数にいる芭蕉よりも、ぽっかりあいた“穴”の方がいいのではと思って(笑)」。
文学研究には作品、作家、さらにその作品を取り巻く社会や文化など、多様な主題とアプローチがある。深沢先生の場合は“手つかず”の領域だけに、まず誰が、どのような作品を書いているのか、最も基本的なデータベースづくりからスタートしなければならないという。「研究の主題を作品にするか、作家にするか、そのあたりも資料探しと整理が進んでからの話ですね。というより、同時進行で出来るのが楽しいのかも」。
深沢先生の研究資料である俳諧の本
松尾芭蕉の「古池や〜」が意外な側面を持つことはわかったが、一般的なイメージとして浮かぶのは芭蕉イコール俳句。もちろん「古池や〜」もその一つだが、深沢先生の研究テーマでもある「俳諧」とは一体、どういうものなのか。
「俳諧は俳句の前身にあたるもので、5・7・5で1句となる俳句に対して、俳諧は複数の作者が順番に「5・7・5」「7・7」「5・7・5」「7・7」と句を続ける、いわゆる“連句”が中心になります。ただ、ここには面白いルールがあって、句を続けるときに1つ前の句とは関連性を持たせますが、2つ前の句とは逆にできるだけ関連性のない内容にします。それでどのくらい変化していくかを愉しむという、とても機知に富んだ遊びなんです。初期は100句くらいつなげていましたが、芭蕉の時代には36句続ける形が一般的になり、“三十六歌仙”をもじって“歌仙”と呼ばれていました。この連句の一番最初の句を“発句”といい、これが独立して俳句という形になっていくわけです。蕪村の頃には連句より発句が盛んに作られるようになっていきました。俳諧は俗語を使いますが、非常にインテリジェンスの高い芸術だと思うんですよ」。
江戸の文化と言えば「庶民文化」のイメージが強く、やはりこの時代の超メジャーな作家・井原西鶴も源氏物語や伊勢物語の内容をパロディにしていることは有名だ。
「江戸時代は、伝統的な和歌や漢詩といった“メインの文化”が町人階級にも広がっていった時代で、だからこそそれらのパロディも成立し、多くの人に理解されたと言えます。こうした二面性を持ち合わせているところも、江戸文化を研究する面白さですね。中でも俳諧は江戸文学の基本でした。江戸都会小説の傑作のひとつ『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』(柳亭種彦作)は『源氏物語』のパロディですが、登場人物たちが和歌ではなく発句を詠むのも俳諧が江戸を代表する文芸形式であることを示しています」。
俳諧の本の中
「授業でよく学生たちに紹介する絵があります。江戸時代に出版された伊勢物語の『芥川』の段の挿絵で、男性が女性を背負って逃げる様子を描いています。これが色々な作品にパロディとして使われる。文章中にヒントがない場合もあって、挿絵を知っている人だけがわかるパロディを盛り込んだことになります。挿絵が何かを踏まえている例は他にもたくさんありますが、視覚的なものの方が、今の学生さんには面白いみたいですね。そこから文章の遊び心についても考えてみて欲しいのです。パロディ自体が一つの文化の成熟を示すものと言われていますし、わからなくても面白いけれど、わかっていればもっと楽しめる。そこが文学研究の面白さであり、考えどころなんだと思います」。
原則として1つの文学作品はそれだけで完結するものであり、単純に読んで感動することが目的なら、作家や社会背景を研究する必要はない。ただ、松尾芭蕉の「蛙」が現代人には想像できない深い意図を持っていたり、「俳諧」の中に無数に盛り込まれたであろう和歌や物語、漢詩文のパロディに、高い機知と知性を発見できるかどうかは読み手の力量、いわば「教養の高さ」にかかってくる。
「作品を研究対象として客観的に見なければいけない面と、やはり感動できる対象として主観的に見る面と、どちらに比重を置くかはとても難しい問題だと思います。ただ、知識の裾野が広がれば広がるほど、見過ごしていた面白さに気づくチャンスが生まれることは確かですから、ゼミでは一歩突っ込んだ知識の共有をはかりたいですね。知識や教養というのは結局、人にぶつけたり、戦わせたりするから面白いわけですから」という深沢先生だが、気になるのは最近の今どきの学生気質、若者たちのメンタリティだ。
「知識や教養の部分で戦うことは、相手の人格に関係ないんですが、言いたいことを言うと相手を傷つけるという余計な心配をするようで(笑)。ゼミは知性をぶつけ合っても人格は否定しない場。そういう意識をもっと高めたいと思っています」。