聖心女子大学の奥行きを知る
研究者として横顔をご紹介するとともに、研究の意義や楽しさを語ってもらいました。聖心女子大学の魅力をより深く知るために役立てていただきたいと願っています。
研究テーマ | : | 比較文化、キリスト教と神道の思想交渉、日本語教育とジェンダーの問題 |
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著書 | : | 『キリスト教をめぐる近代日本の諸相―響鳴と反撥』(共著)オリエンス宗教研究所 『日本、キリスト教との邂逅―二つの時代に見る受容と葛藤』(共著)オリエンス宗教研究所 『日本史小百科 キリシタン』(共著)東京堂出版 『幕末日仏交流記―フォルカード神父の琉球日記』(共訳)中央公論社 『日本語とジェンダー』(共著)ひつじ書房 |
『遠い場所の記憶−自伝』
著者:エドワード・W・サイード
訳者:中野真紀子
出版社:みすず書房
パレスチナ生まれ、エジプト育ち、英国式の学校教育を受け、アメリカでの大学生活、父親が第一次世界大戦の戦功によって得たアメリカ市民権のおかげで獲得したアメリカ国籍をもつ著者。エドワードという西欧的な名前に、サイードというアラブの名字をもつ自分とは何者かを問うことから始まる著作。さまざまなアイデンティティの可能性を持ちながら、どこにも属さない心地がする著者は、アイデンティティを選び取るものと考えています。
至って個人的な切なさに端を発した問題意識が、偉大な思想家・学者を育てる原点になっていることに、こちらも切なくなりながら引き込まれます。
現在は国際交流専攻で「日欧比較思想ゼミ」を開講する小川早百合先生だが、大学時代は外国語外国文学科で言語学を専攻。一見して「思想」とは無縁のようだが、その経緯をたどっていくと実はごく自然な一本の線でつながる。
「『もの』が広い地域に伝わっていく時に、その名前を表す言葉も一緒に伝わることが多いのですが、言語学を学び、その“言葉の変化”を調べることに興味を持ちました。キリスト教も世界中に広がっていく時に、例えば『聖書』に書かれたことをそれぞれの布教地の言語で説明することが必要になります、いわば翻訳の作業です。そこでキリスト教の概念をほかの言語で伝える時にどういう言葉を使っていて、それが元々のキリスト教での意味と違ってきていないかを調べようとするうちに、次第にキリスト教の思想の研究に入っていきました。ですので、日本における最初のキリスト教の頃から取りかかろうということになり、大学院ではキリシタンの研究に取り組んでいました。そこで『日本人がどのようにキリスト教を受容してきたか』という私自身の最初の研究テーマが決まっていったわけです。ヨーロッパ文化と日本文化をキリスト教を軸として比較していくという手法で、学問的には“比較文化”という新しい分野です。中でも“比較思想”と呼ばれる領域に片足を入れています」
歴史学や文化人類学、社会学、心理学などさまざまな学問からのアプローチが可能なテーマでもある。小川先生が挑むのは「言葉」や「宗教」という特定の領域や手法に限定されない、きわめて多様な複合領域なのだ。
「ご存知の通り、イエズス会のザビエルによる布教と明治維新に伴う西欧文明の導入と、日本人は鎖国の時代を挟んで2度、キリスト教を受け入れています。日本におけるキリスト教の歴史が鎖国によって途切れたのか、あるいは思想的には継続していたのかは議論が分かれるところですが、いずれにしてもこの2度の“出会い”の状況やそのとらえられ方はかなり違います。ゼミの活動の中では、そうした違いについて認識することがスタートと言ってもいいでしょう」
キリスト教の伝来と明治維新。日本史の教科書に必ず書かれている2つの大きな出来事だが、そこに現代も続く“日本人とキリスト教の特殊な関係”の原点があることは意外と知られていない。それが、この研究のキーワードと言ってもいいだろう。
小川先生によると、キリシタン時代のイエズス会の布教方針は“おしつけ”より“理解”。つまりヨーロッパ的なキリスト教の教義や儀式にこだわらず、日本人が受け入れやすい“日本仕様のキリスト教”に変更した部分があるのだという。
「それは彼らが日本に来る直前、伝統的なスタイルにこだわり、インドでの布教に失敗したからとも言われていますが、もともとキリスト教自体が高い柔軟性を備えていて、その土地の人々や文化、社会に合わせた形でアレンジされ、広がったことは歴史的にも確か。つまり日本での“1度目の出会い”はキリスト教本来のスタイルに近かったと言えます」
ところが、2度目の出会いは大きく様相を異にした。背景にあるのは、明治維新による行きすぎた「西欧崇拝」の時代感覚だ。
「当時の指導者たちの一部は過激なまでに西洋化をめざしました。鹿鳴館などはその典型ですし、森有礼のように、公用語を英語にすべし、という意見さえもありました。ですから市井の人々の中に、キリスト教も“ヨーロッパ仕様”のものをそのまま取り入れるべし、と考えた人たちがいたのも当然かもしれません」
言わば“直輸入”のキリスト教を受容しようとしたことが、日本におけるキリスト教の普及を妨げた一つの要因ではなかったか。それが小川先生の視点であり、学生にとってはこれまでとは違う新しい認識への入り口でもある。
「ヨーロッパの個人主義も民主主義もキリスト教あってのものですし、キリスト教を学ぶことは西洋的な世界観を理解する上でとても有用。これを日本人がもともと持っている信仰心と比べてみる。日本人独特の思想とキリスト教が案外どこかで共通点をもっている、ということがはっきりしてくるのでは、という期待があります。では、日本人のどんな信仰心と比べるかということなんです」
「たとえば初詣やお宮参り、お盆の墓参りなど、多くの人が宗教行為と意識せずにしていること。これも、キリスト教思想と比べて考えてみることができるはずです。江戸時代には日本人のほぼ全員が仏教徒にさせられたわけですが、そういう事実とは別に、日本人はもともと“あらゆるものに宿る神さま”の存在を意識してきました。ですから、国策として仏教と神道を共存させた『神仏習合』は本来、キリスト教が世界各地で行ってきた“その土地化”に通じるものであり、キリスト教と日本人の思想の共通性を探る手掛かりとなるものかもしれません」
“直輸入”のキリスト教と“神仏習合”の信仰心を比較研究することで導かれるのは、モノの見方の多様性への気づきであり、多様な中から必要なものを選び取ること。それは、小川先生が掲げるゼミの運営方針にもつながっていく。
「日本人が知らず知らず取り入れている宗教的な行為や考え方は身近にたくさんありますし、研究テーマはどこにでもあります。ただ大切なのは、一つのモノを違う角度から見ることと、別のモノと比べて見ること。常に複数のアプローチでモノを見ることです。自分なりの探求をすることを通して、最後は一人ひとりが自分自身のアイデンティティを選び取れるようになる。それがゼミの目標でもあります」
そんな小川先生は、学生指導のモットーとして次のようなメッセージをくださった。
「課題や議論など、その場ですぐにできなくても諦めず、いつか答えがでることを信じて待ち続けることです。本当に面白いと思うことに取り組んだり、仲間と徹底的に議論したり。社会に出るとそういうチャンスや場所はなかなかありません。すぐに正解を求めるのではなく、ゼミ活動や卒業論文作成を通して、論理的に考え、ディスカッションする楽しさを感じてもらいたいと思っています」