聖心女子大学の奥行きを知る
研究者として横顔をご紹介するとともに、研究の意義や楽しさを語ってもらいました。聖心女子大学の魅力をより深く知るために役立てていただきたいと願っています。
研究テーマ | : | フランス中世史・キリスト教史 |
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著書 | : | 『キリスト教の歴史 1』(共著)山川出版社 |
『共和国の女たち』
著者:長谷川イザベル
出版社:山川出版社
若い女性向けの本として選びました。著者は日本人男性と結婚して日本で暮らすフランス人で上智大学の教授としても活躍した女性研究者です。フランス女性というと自由でオシャレなイメージを抱きがちですが、必ずしもそうじゃない。ちょっとした異文化理解の手がかりとして、楽しく読んでみてほしいと思います。
父親は教員で自身はカトリック信者。幼い頃から家にある歴史の本を読み漁り、小学校時代はクラスに必ず一人はいる“歴史博士”のような生徒だったと笑う印出忠夫先生。大学は史学科を選び、フランス語にも興味があったことからヨーロッパ史を専攻。とりわけ中世のキリスト教問題と南仏地域が果たした役割についての研究をメインテーマに掲げる。
「大学時代は特にどの時代のどの地域に関心があったというわけではないんです。ただ、日本史は細かそうなのでヨーロッパを選びました。中世に絞ったのは自分的に一番“よくわからない時代”だったから(笑)。キリスト教は当時の社会規範や世界観に大きな影響をおよぼしていましたし、まぁ、ヨーロッパの歴史にかかわる研究なら、どんなテーマであっても外せないキーワードではありますね」
高校の世界史で習った人もいるだろうが、ヨーロッパの中世は一般に紀元5世紀半ばの西ローマ帝国崩壊からルネサンス、あるいは宗教改革までの約1000年間を指しており、ゲルマン民族の支配、正統キリスト教による異端審問、教皇と皇帝の権力闘争、そして、ペストの大流行などの混乱をもって「暗黒の時代」と位置づける歴史家もまだまだ多い。広い意味では古代から近世・近代への非常に混沌とした過渡期にあたり、印出先生の言う“よくわからない時代”は確かに的を射た表現と言えるかも知れない。
「キリスト教、特にカトリックは清廉潔白で厳しい戒律を持ち、俗世を避けるというイメージがあると思いますが、それらは宗教改革以後に築かれたもの。中世のキリスト教会は政治や経済で主導的な役割を果たしており、権力や財力を持つ聖職者もたくさんいました。それが後年、厳しい批判の対象になったわけですが、そういう人たちこそ現代の私たちに近い、とも言えるでしょう。中世ヨーロッパは“宗教改革前のどさくさ”に紛れて、キリスト教が非常に人間くさい一面を見せた時代でもあります」
研究資料。
中世フランスの市民生活を読み解いていく
印出先生によると、中世はキリスト教会が初めて大学を設立し、いわゆる「学歴社会」が始まった時代。野心ある人々が学び、力をつけ、地位と富を手にする、そんなサクセスストーリーが生まれた時代でもあるのだ。
「この時代あたりから、まがりなりにも“頑張った人が報われる”という仕組みが出来上がってきたわけで、それ自体は否定されるべきではない。少なくとも私自身は、権力や財力をめざした人たちに強い共感と関心を抱いきました」
中世ヨーロッパにおけるキリスト教が単なるいち宗教ではなく、政治・経済・文化の全てに多大な影響力を持つ“一大思想”だったことは確かで、研究テーマとしての中世とキリスト教は表裏一体をなすと言ってもいいだろう。印出先生の興味・関心もそこに尽きるわけだが、もう一つ、確認しておかねばならないのは印出先生が「南フランス地域」にこだわる理由だ。
「中世にはさまざまなキリスト教をめぐる問題が起こりますが、その中で私が学部時代に選んだテーマは『異端審問』でした。その最大の運動が南フランス地方で起こっていたことが理由の一つ。それと、『教皇のバビロン捕囚』としてご存知の人もいるでしょうが、南フランスのアヴィニョンは中世末期に約70年、教皇庁が移された都市で、この時期は宗教改革の引き金とも言える教皇庁の腐敗ぶりが最も顕著だったと言われていますが、そういう評価で納得してしまってよいものかどうか。実際、この『アヴィニョン捕囚』以後、キリスト教会は大分裂するわけですが、前述の言葉を借りると、南フランスは最も人間くさい一面を見せた地というわけです」
印出先生によると、当時は「フランス」という意識は薄く、北仏に位置するパリと南仏のブロヴァンスやアヴィニョンはほとんど外国のようなものだったとか。
「今でこそフランスといえば首都のパリという認識ですが、キリスト教が支配する中世においては、地中海沿いにイタリア(ローマ)やスペインと接する南仏地域がフランスの、いやヨーロッパの中心地というプライドを持っていたと思われます。私自身の研究と直接のつながりはありませんが、そういう視点からのキリスト教研究もできる地域なんです」
中世フランスの文字を読み解くための辞典
キリスト教研究を紹介する際、よく聞かれるのが「キリスト教はヨーロッパ的世界観の基盤であり、その勉強はグローバリズムを身につけることにつながる」という話。印出先生の見解は「半分は正解で半分は誤解」だ。
「もともとはパレスチナで生まれの宗教ですから、キリスト教=ヨーロッパではありません。ヨーロッパがキリスト教を自分の文化にしてきたと言った方が正しいでしょう。その意味で中世はキリスト教を国体的、つまり政治に利用した時代とも言えます。テーマの設定次第で一つの時代、一つの地域にさまざまな方向からアプローチできるのが歴史学の魅力。大切なのはマクロとミクロ、両方の視野を持つことです」
「中世の南仏におけるキリスト教問題」というテーマだけを見ると、きわめて限定的で、印出先生自身も一つの領域に特化した専門家という印象を与える。それが「文学部はツブシが利かない」という先入観につながりかねないことも事実だ。が、しかし。印出先生が中世の人々に現代人との共通点を見出したように、歴史学はただ単に過去の知識をかき集めて標本にする学問ではない。
「ミクロな一点に照準を合わせて研究を進めると、やがてマクロな全体の理解へフィードバックされ、さらに突き詰めると一人ひとりの考え方や理念に戻ってくる。そこが歴史学に限らない、あらゆる学問の基本かも知れませんね」
という印出先生が高校生諸君に贈るメッセージは「大学ではとっつきにくいことをやってもらいたい」。それは「よくわからない時代」を研究テーマに選んだ印出先生ならではのユニークな持論にもとづくものだ。
「よくわからないもの、とっつきにくいものに取り組むには時間と労力が必要。裏を返すと、そんなことができるのは大学時代だけ。わかりやすいこと、簡単にできることに流されず、大いにチャレンジしてほしいと思っています」