聖心女子大学の奥行きを知る
研究者として横顔をご紹介するとともに、研究の意義や楽しさを語ってもらいました。聖心女子大学の魅力をより深く知るために役立てていただきたいと願っています。
著書 | : | 『乳児のストレス緩和仮説』川島書店 『図説・乳幼児発達心理学』同文書院 『乳児期の対人関係』川島書店 など |
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[村井実さんの本]
写真:教育と「民主主義」
出版社:東洋館出版社
学生時代に村井さんの本に出会い、人生観が変わりました。タイトルは何でもいいですから、まず1冊、読んでみてください。当たり前だと思っていた常識が全て覆されるかも知れませんよ。
赤ちゃんの自発的微笑の写真。
卒業生の一人が記録したもの。
泣いている赤ちゃんを母親が胸に抱くと、すぐに落ち着いてすやすやと眠りにつく。なぜなら赤ちゃんは母親の心音を心地よく感じるから。確かにそんな話を聞いたことがある、という人は多いだろう。いかにも信憑性がありそうなこの説に発達心理学の立場から異議を唱えているのが教育学科心理学専攻の川上清文先生だ。
「1990年代に私が行った実験では、お母さんの心拍音よりもホワイトノイズ(規則性のない波のような雑音)を聞かせた方が赤ちゃんはより落ち着くという結果が出ています。それでも日本人の多くは“心音説”を信じていますが、アメリカではすでにホワイトノイズを仕込んだベビー向けの人形などが発売されています」
なぜ特許を取らなかったのかと友人に言われて知ったのですが、と川上先生は笑う。
事実無根とは言わないまでも、私たちの周囲にはこうした不確かな通説や思い込みがあふれている。川上先生の中心的な研究テーマである「乳児の自発的微笑、自発的笑い」、つまり“赤ちゃんのほほえみや笑い”に関する考察も、「生まれたばかりの赤ちゃんは笑わない」という“常識”への疑問から始まったものだ。
「一般的に赤ちゃんが笑うのは生後4ヶ月以降と言われてきましたが、どうやらこれも違うようです。実際、生まれた直後の赤ちゃんの笑いのビデオをたくさん持っています。それをまとめた論文への反響は大きかったです」
「動物の中でヒトとチンパンジーだけが“ほほえみ”ます。そのことへの興味もあって、ヒトの微笑はどう発達するのか、いつ笑い始めるのか、本当に生まれたての赤ちゃんは笑わないのか、という疑問がわいてきたのです」
川上先生が大学で研究を始めた頃、この分野は主に子どもを研究対象とすることから児童心理学と呼ばれていた。だが、ここ20年ほどで「人間は死ぬまで発達変化する」という考え方が広がり、発達心理学の呼び名が定着したという。つまり、川上先生はそのパイオニア的存在なのだ。
「自発的微笑はあくまで関心のあるテーマの一つで、過去にやってきたこと、これからやりたいことを挙げるとキリがありません。とにかく次から次に疑問がわいてきて、研究に関してはあちらへ行ったりこちらへ行ったり。決して一本道とは言えないです」
その言葉通り、川上先生がこれまでかかわってきた研究テーマは実に多種多彩。対象も乳・幼児をはじめ、胎児や新生児、果てはニホンザルの乳児まで、その発達について少しでも気になることは全てが川上先生の“守備範囲”だった。もちろん、心理学で胎児や新生児などを扱うことに違和感を覚える人もいるだろう。意識や自覚のない(と思われる)反応も心理学の研究対象となりうるのか。川上先生の見解は一見ユニークで、実はきわめて論理的だ。
「少なくとも心理学で胎児を扱う研究者はほとんどいません。しかし、私の場合は、環境とのやりとりを始める時から心理学の対象になると考えています。具体的には受精から約10日後、着床して胎芽期に入った頃からですね」
この時期はまだ母親が妊娠を認識していない段階であり、胎児にとっては最も外界からのダメージを受けやすい時期である。
研究へのモチベーションを「純粋な好奇心」と語る川上先生。「その成果が何に役立つのか」という質問にはたいてい「何の役にも立たないでしょう」と笑って答える。
「自発的微笑の研究者は世界で10人くらいしかいませんからね。何故、そんな研究をしているのかと聞かれたら『面白いから』と言うしかありません」
川上先生が今の学生たちに求めているのは、自らが抱き続けた旺盛な好奇心と、やはり世の中の常識に対する強い批判的精神だ。
「ホワイトノイズにしても赤ちゃんの自発的微笑にしても、根底にあるのは日頃、当たり前だと思っていたことへの疑問と批判的精神です。私はこれまでさまざまな“通説”を覆してきましたが、そのたびに強い反論と逆批判も浴びています。でも、さまざまな見方と主張がぶつかり合うのも本来あるべき健全な姿でしょう。高校時代と違い、大学や社会では正解が一つしかない問題などほとんどありません。まず常識を疑い、科学的な観察を行い、オリジナルな解答を導き出さなくてはいけないのです」
聖心で教鞭を執って30年。今、川上先生の研究を支えているのは結婚し、母親となり、貴重な実験やモニタリングに協力してくれるかつての教え子たちだ。ここに掲載する「自発的微笑」の写真も、卒業生のひとりが記録したもの。
「昔受けた私の授業のノートを見ながら子育てをしたという卒業生もいます。何より嬉しいのは、学生時代に発達心理学を学んだおかげで子どもを見る目が育ったと言われることですね」
研究室での取り組みを通してよき社会人、よき女性、よき母親としての資質を磨くだけでなく、大学院にはよき研究者の道も用意されている。発達心理学だけでなく、基礎的な心理学や臨床心理学も学べる。その多様性こそが、聖心の心理学研究室の大きな持ち味でもある。