聖心女子大学の奥行きを知る
研究者として横顔をご紹介するとともに、研究の意義や楽しさを語ってもらいました。聖心女子大学の魅力をより深く知るために役立てていただきたいと願っています。
研究テーマ | : | 昭和期の文学 |
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著書 | : | (編著) 作家の自伝57「火野葦平」(日本図書センター) 作家の自伝71「原民喜」(日本図書センター) |
〔文字〕
「読む」という行為は、自分の意志で行うため、考えることに最もよくつながります。読む対象は、小説から研究書、雑誌、漫画まで、何でもかまいません。興味を持ったものがあれば手に取り、面白く読んでやろうと、全力を傾けてほしいですね。
「文学研究」と聞くと、「作家はこの作品で何を語りたいのか」を探る研究だと思いがちではないだろうか。しかし、それは現代国語的な考え方だ、と川津先生は言う。
「作家に興味を持つことは当然のことですが、我々が文学と呼ぶのは、言葉で書き表されたものです。表現する人間が面白いのではなく、その人間が表現したものが面白い。我々が“読む”という行為をとおして面白さに繋がる何を引き出し、何を構築していくのかが、文学を読む意味だと思います」
そう語る川津先生も、研究の道へ踏み出したきっかけは、作家個人への興味だったという。その作家とは、広島で原爆に遭い、その惨状を小説に綴った原民喜と、かつては不治の病と言われたハンセン病を患っていた北條民雄だ。二人とも、昭和10年代から20年代の戦争の時代を生きている。
「原民喜は自殺をしてしまいますし、北條民雄は社会的な成功を瞬間的には納めるのですが、すぐに死んでしまう。最初の頃は、結果としては不遇であった作家本人への興味がありましたね」
この二人への興味から文学の魅力に引きつけられ、昭和の近代文学、戦争を描く文学の研究に取り組むようになったという。
「いずれ死が目の前に迫ってくる二人ともが、それまでの時間の過ごし方として文学を選び取りました。そこには、文学と呼ばれるもの、書くことが持つ力への信頼や欲求、欲望があったのだと思います。例えば原民喜は、多くの生が終わった広島という場所で、たまたま自分の生を拾った。しかし一方で、原爆病によりいつかは死に至るだろうとの先行きを彼は見ていました。それは北條民雄も、当時戦争に行った作家たちも同じことで、自分自身の時間の限界を目の前に置かれながら、なお言葉で表現しようとした共通点があります」
そして川津先生は、表現手段としての文学に、そして、その文学を読むことに魅力を感じていく。
「彼らが言葉で表現したものに、僕らは読むという形で向き合うことしかできません。読んだ言葉のなかから何かを引っ張り出すことが、読む側の仕事だと思います。作家について、特別な情報を知らなくてもかまいません。病気や戦争が描かれた言葉のなかから、どれほどの切実なものを自分が読み取れるか、引っ張り出せるかが問題なのだと個人的には思っています。彼らが何を書きたかったかは、彼らの問題で、読む側の問題は、彼らが書いたものから何を読みたいか、何を読み取れるかにかかってくるのです」
音楽は、自然と耳に入り、自然と頭の中で流れてゆき形になる。しかし、文学はそうはいかない。自分で意志を持って言葉を一つひとつ読み、意味をつなげていかなければ物語が形にならないのだ。
「本は、誰かに読まれない限り作品ではありません。言い換えれば、読んだ人間のなかにしか作品は生まれないのです。作者が書こうとしたテーマはあるのかもしれませんが、多くの場合、それを確認できる手段はありません。だから、読み手として文学に関わる時は、このテキストから自分はこう読むしかないのだという部分に全力を傾けて読むのです」
何を読み取るか、ということは、何に興味を持つか、ということだ。同じ小説を読んだとしても、人によってはテーマを探ろうとしたり、小説に出てくるモノを気にしたり、登場人物に関心を持ったりするだろう。誰もが共感できる読み方もあるだろうし、思いもよらない読み方もあるかもしれない。
「読み方は常に自分のなかで変化していくし、これしかないという到達点はないと思います。だから講義では、学生がいままで学んできたことを踏まえたうえで、彼女たちが考えもしていない読み方を提示するようにしたいと思っています。その読み方が正しいと思わせることが目的ではありませんし、彼女たちのいままでの読み方が間違っているわけでもありません。さまざまな方向から読むことができると示すことで、「こんな風に読んでいいのだ、じゃあ私もこんな読み方をしてみよう」と思って欲しい。違う読み方をするきっかけにしたいのです」
同じように、考える方向を変えていくことで、面白くないと思っていた小説のなかに、面白い部分を見つけることもできると川津先生は語る。
「小説は面白くないわけではありません。自分がそれを面白がろうとしていないだけなのです。小説が面白さを勝手に提供してくれるわけではなく、自分がその小説を面白く読もうとする努力が必要です」
現実の人間がいろいろな面を持っているように、小説のなかの出来事や人物もいろいろな面を持っている。
「ただ違うのは、小説のなかの人物は向こうから話しかけてきてくれない。ちょっと後ろを向いてほしいと、頼むわけにもいかない。だから、背中を見たいと思ったら我々が後ろに回りこむ努力が必要です」
そんな川津先生の言葉に耳を傾けていると、いままでつまらないと放り投げていた小説も、また手に取って読んでみたくなる。自分の工夫と努力次第で、思いもしない新たな面白さが見つかるかもしれない。
「文学は、作者個人のものではなく、多数の読者のものです。自分がその作品とどのように関わって、どのような作品を自分の目の前に作り上げていくのか。それが文学の本質だと思っています」
そんな川津先生のもとで、学生たちは実に自由に研究テーマを選んでいる。どの対象をどんなアプローチで研究してもかまわないし、純文学や大衆文学の垣根もないという。「自分が面白く読もうとすれば、なんでもあり」という川津先生らしい指導法だ。
「学生に伝えたいのは、読んでいるのは自分なのだということです。作家が読んでくれと言っているわけでもないし、ほら面白いだろうと言っているわけでもありません。だから、自分がどう読むかということに常に責任を持たなければいけません」
しかし、どう頑張っても、興味を持てない小説や面白みを感じられない小説にまで、責任を持てるだろうか?
「もちろん、なんとか面白がろうと頑張っても、自分にとって面白くない作品というのはありえます。それなら、なぜこの小説は自分にとって面白くないのかということを考えればいい。それも、その小説について考えることにつながります」
なるほど、面白いと思って読むのではなく、これは面白くないと思って読むのも一つの読み方なのだ。自分の意志で読み、考え、自分で責任を持つというスタンスこそが重要といえる。
「言葉・情報というのは基本的に嘘をつくものです。小説だけでなく、テレビや新聞のニュースも同じで、向こうから与えられた情報をただ受け取るのではなく、自分でしっかり選び取ることが必要だといえます」
自分の頭で考える、自分の視点でものごとを見る。社会を見渡す時にも、きっとこの姿勢は生きていくに違いない。