聖心女子大学の奥行きを知る
研究者として横顔をご紹介するとともに、研究の意義や楽しさを語ってもらいました。聖心女子大学の魅力をより深く知るために役立てていただきたいと願っています。
研究テーマ | : | 日本倫理思想史、日本の宗教思想。 |
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著書 | : | 「八木重吉の《かなしみ》」『実存思想論集9・ニーチェ』所収、理想社 『日本人の心の教育』(共著)官公庁資料編纂会 「内村鑑三にみる近代日本のキリスト教思想」『大航海67号』所収、新書館 |
『古今亭志ん朝の落語』
写真:落語研究会 古今亭志ん朝 全集上下
販売元: ソニー・ミュージックダイレクト
落語好きの父親の影響で、幼い頃から古典落語のファン。特に志ん朝は現代風で歯切れが良く、聞きやすい。普段、学生の前で話しているだけに、人を惹きつける話術の巧みさは、何度聞いてもすごいと思う。
「哲学」=philosophyはギリシャ語の「愛」=philosと「知」=sophiaをつなげた言葉、すなわち「知を愛する」の意味を持っている。ところが「哲学的」となると知性や理性よりも「非科学的」「神秘的」に近いニュアンスで、ともすれば気難しく近寄りがたい、あるいは意味不明な様子を指したりもする。実は「哲学」に対する一般的なイメージも、むしろこちらの「よくわからないもの」ではないだろうか。
「確かに哲学は理屈っぽくて、あまり役に立たないものだと思っている人は多いでしょうね。同じ人の内面に向かう学問でも心理学、特に臨床系の場合はカウンセラーや臨床心理士など資格・スキルが明確ですから、高校生の皆さんも興味・関心を抱きやすいんだと思います。ただ、もともと心理学も哲学から派生した学問の一つですし、“こころざし”はほとんど同じです。心理学が他人の心を見つめる学問なら、哲学はまずは自分の心を見つめようとする学問と言えるかも知れませんね」。と語るのは哲学科哲学専攻の准教授であり、聖心女子大学の卒業生でもある長野美香先生。聖心に学んだことがきっかけで宗教に出会ったという自身の関心から、現在は日本人と宗教、特に明治・大正期のキリスト教思想の研究に取り組んでいる。
「本来は日本人の信仰心に興味を持っているんですが、具体的な“誰か”や“何か”が研究対象でないと裾野が広すぎて手に負えない。日本人の信仰心それ自体についてはいずれ、もっと年をとってからやりたいと思っています(笑)」。
学生たちにとっては最も身近な“先輩哲学者”ということになる長野先生だが、持ち味はやはり学生との距離の近さ。ゼミナールの運営方針も『教える』というより『一緒に考える』。一方通行にならないようシンポジウムのようなスタイルで、学生と一緒に模索しながらディスカッションを重ねていくという。
「哲学科のゼミナールはどこもそういう雰囲気。皆さんが想像するほど堅苦しくはありません」。その言葉通り、学生たちのテーマ設定もきわめて柔軟で多様だ。「一応は日本の思想に関連するものとしていますが、日本思想に含まれる範囲はけっこう幅広くて、神話や文学作品を扱ったり、武士道や芸道に関すること、なかには宮崎駿をテーマに卒論を書いた人もいます」。もちろん、大切なのは何を研究の対象にするかではなく、そのアプローチを通して物事を客観的にとらえる力を養うことだ。
「哲学を勉強しているというとなにかに悩んでいるんじゃないか、などとジメジメしたイメージを抱く人もあるかもしれませんが、それはまったくの誤解です。哲学は、実は非常に冷静な視点で客観的に自分自身をとらえる、とても“クールな学問”です。自分の問題を自分の問題のままにしておくと論理的な判断ができませんから、まずは一度、自分から引き離し、外側に取り出して他人ごとのようにながめる。そういう冷静さが備わっているせいか、哲学を学んでいる人は皆、案外、カラッとしているんです(笑)」。
徹底的な客観性と論理性はまさに「知性」の象徴とも言える。長野先生の言う「自分の心を見つめる」とは即ち、自分のことすら客観的にとらえて問題の本質を見抜こうとする“哲学的”な思考法を指しているのだろう。
心理学がそうであったように、実は文学も歴史学も、そのほかのさまざまな学問や芸術も、そのおおもとには哲学がある。長野先生の言葉を借りると、自分の中のものを外に取り出す時、その“取り出し方”によって心理学になったり、文学になったりするわけだ。
「哲学は“難しい学問”と言われますが、でも、創作である文学には虚構があり、時には裏を読む必要もあるでしょう。その点、真実だけを伝えようとしている哲学的な文章はわかりやすいと思います」。
少し話を聞くだけでも「哲学」に対するイメージ自体、その本質とは違うところで一人歩きしていることがわかる。それは「信仰」についても同じだ。「日本人は無信仰と言われますが、朝、テレビの星座占いを見て気分が左右されたり、何か願い事をする時につい『神さま!』と念じてしまったり、実はいつも、知らず知らずなにか神秘的なもの、信仰や宗教につながるものを心に抱いています。運が良いとか悪いとか簡単に言うけれど、そんなときには自分も何か人智を越えた力を信じているのではないか、こんな反省も“哲学的”なテーマになりますよね(笑)」。
そんな長野先生が自身のテーマとは別に取り組むべき課題と考えていること。それは関連文献の“翻訳”だ。「哲学の本、特に思想系はとにかく難解で読みにくい。最近、古い日本文学を読みやすく挿絵を加えて出版したり、六法を平易な文章に直したりする動きがありますが、もしかすると今、ほとんど手つかずの哲学や思想系の文献も同じような運動が必要かも知れません。せっかくすばらしいことが書いてあるのに、今の学生にとっては明治や大正の文献ももはや“古典”になりつつありますから(笑)」。もちろん「わかりやすさ」が本当の理解に直結するかどうかはわからない。わかりやすいが故に好奇心が削がれたり、疑問が見過ごされたりする可能性もある。そのジレンマを克服できるかどうか、これもまた“哲学的”な取り組みと言えそうだ。