聖心女子大学の奥行きを知る
研究者として横顔をご紹介するとともに、研究の意義や楽しさを語ってもらいました。聖心女子大学の魅力をより深く知るために役立てていただきたいと願っています。
※中川先生の画像(上)は、ウィリアム・モリスゆかりのレッドハウス(ロンドン郊外)を訪れた時のもの(2017年夏) | ||
著書 | : | 『日常の相貌――イギリス小説を読む』(単著)水声社 『フランケンシュタイン』(共編著)ミネルヴァ書房 『〈食〉で読むイギリス小説 ― 欲望の変容』(共編著)ミネルヴァ書房 『〈インテリア〉で読むイギリス小説 ― 空間の変容』(共編著)ミネルヴァ書房 『旅するイギリス小説 ―移動の想像力』(共編著)ミネルヴァ書房 『D. H. ロレンスと現代』(共著)国書刊行会 |
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『長岡輝子、宮沢賢治を読む』CDブック 全8巻
著者:宮沢賢治
朗読:長岡 輝子
出版社:草思社
盛岡市出身のベテラン女優による賢治作品の朗読。オーケストラのさえないチェロ奏者ゴーシュのもとを動物たちが次々と訪ねてくる『セロ弾きのゴーシュ』。太鼓の練習にくる子ダヌキが何とも言えずかわいらしい。『雪渡り』は、満月の夜、幼い兄妹がキツネの幻燈会に招かれる話。「キックキックトントン」という歌に心が洗われます。どの作品も声の力に深い感動を覚えます。
『夜と霧』
著者:ヴィクトール・フランクル
出版社:みすず書房
半世紀以上読み継がれてきた、心理学者によるナチスの強制収容所の体験記録。戦時の強制収容所という非日常においていかなる日常が形成されていたかが克明に記録されています。生きるとはどういうことかを考える指針となる一書。私は霜山徳爾訳で読んできましたが、若い人には池田香代子による新訳版でぜひ読んでほしいと思います。
先生の授業で2年生が仕上げた創作。犬が主人公のヴァージニア・ウルフの作品に学び、「人間でないものが主人公」の掌編を書いた。野生のオオカミ、動物園のパンダ、犬や猫、ぬいぐるみなどを素材に、受講生16人が16篇の「たった一つの物語」を書き上げた。表紙デザインも学生。 聖心祭の展示も来場者に好評だった
本来の自分とは何か。急に聞かれても、簡単には答えられない。でも切実に自分の未来を探るかけがえのない学生時代にこそ、文学作品を通して本来の自分をじっくりと探る経験をしてほしい、中川僚子先生はそう語る。誰しも子どもの頃は、お話を素直に楽しんだはずだ。お話がイギリス文学という名前に変わったとしても、同じように読書で<素直に感じる>経験を味わってほしい、それが先生の願いだ。くまのプーさん、ピーター・ラビット、ナルニア国物語など、イギリス生まれのお話に親しんで育った人は多い。中川先生もかつてイギリスを舞台とした児童文学を読みふけったという。
英語学を勉強していた中川先生が、英文学研究を志したのは、大学を卒業する時だったという。「大学四年生になって、将来何をしたいかを自問したときに、人間の心の動きやふるまいを観察することが好きであることに気づきました。文学研究を選べば、人間観察を極めることができるかもしれない(笑)と気づいて興奮しました」 大学院に進学し、イギリス留学を実現する中で、イギリス小説の奥深い魅力に気づいたという。
先生の著作。『日常の相貌―イギリス小説を読む』。「日常」の中にふいに立ち現れる「非日常」。牧草地の裏の廃墟。イヴニング・ドレスのほつれにのぞく老いの不安。ジェイン・オースティンから現代のカズオ・イシグロまでの小説を通して、日常の小さな危機において、わたしたちがどのように<ことば>に支えられながら生きているかを探る
「文学研究の世界では、人間のいろんな感情に名前がついていることを新鮮に感じました。特にself-で始まる自己欺瞞、自己劇化などの名詞が数多くあること、またその事実が示すように、ものの感じ方=感情の傾きが人間の生き方を左右することに驚きました。ある研究者仲間に、中川さんの研究テーマは感情の言語化ですねと言われたことがありますが、感情にどのような名前を与えられるかというのは、わたしの一貫した関心ではあります」
「わたしたちは一人ぼっちではなく、共感に支えられて生きているので、他人の感情をたどる読書行為は大事です。2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロは、小説家としての自分の仕事は、『人間として生きるとはどのような感情を感じることか。この世界で生きるとはどんな感情を経験することかについて思いをめぐらせる』こと、とあるインタヴューで語っています。実際イシグロの特徴は、本人すら気づかないほど心の深みに埋もれた感情を、文学という言語芸術を通して掘り起こしていくことにあります」
先生の授業で使用されるイギリス小説の例。シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』、ジェイン・オースティン『分別と多感』。授業はディスカッション中心で全員に役割があり、順に司会も務める。現代的視点からの検討を加えつつ、長編を半期で1冊読み終える
授業参加を通して<自分の声>を見つけてほしい、と先生は言う。むずかしいことを言おうと身構えずに、作品を読んでどう感じたかを率直に言語化すること。「借り物でない<自分の声>で話すことを身につけてほしいと思います。わたしたちは違う環境で育ち、違う経験をして、違う感じ方をします。違いこそが宝物ですので、自信をもって『わたしはこう思う』と熱く語ってほしいのです」 変化の早い社会においてこそ、物事を深く感じ取り、じっくりと考え、ことばにできる人の存在は貴重だ。
英語英文学科の特色は約7割の専門科目が英語で行われることで、中川先生も多くの授業は英語で行っている。<英語で学ぶ>授業と、<自分の声>を見つける学びには意外にも相乗作用があると先生は言う。「『英語で何か言わねばならない』というせっぱつまった状況に初めは戸惑いますが、ことばが周囲の人に届いていると実感すると発言が楽しくなってきます。認識を深めることが目的ですので、教室では誰もが人の話に耳を傾けますし、皆がいかに伝えるか頭を絞りながら発言しています。『言いたいことをぎりぎりまで粘って表現するときに、英語力が伸びるんですね』という学生もいて、授業で目指していることをわかってくれているようです」
先生の著作。<衣食住で読むイギリス小説>シリーズ(ミネルヴァ書房)のうち、『<食>で読むイギリス小説―欲望の変容』、『<インテリア>で読むイギリス小説―室内空間の変容』を企画・編集。後者の帯には、マリオ・プラーツの『室内は魂の博物館である』という言葉が記されている。衣食住という記号に込められた意味を丹念に拾い上げ、人とモノの関係について考える論集
イギリス小説を読む楽しさの一つは、しばしば読者の「わかったつもり」がひっくり返されるところにあると中川先生は語る。「たとえば、ジェイン・オースティンの『エマ』で、裕福な家庭に生まれ、美貌にも恵まれた主人公エマは、苦労をしらずに育っただけに、やや軽率なところがあります。一方、脇役の中年女性ミス・ベイツは、善人ではあるのですが、息もつかせぬ長いおしゃべりでいつもエマを退屈させてしまいます。当然、読者もミス・ベイツのおしゃべりが始めるとイラつきます(笑)。ところが、小説の後半、エマの心ないひと言がミス・ベイツを深く傷つけた瞬間、読者は貧しい生活の中にもいつも喜びを見出して感謝し、周囲の幸せだけを考えて生きるミス・ベイツの真価に目を開かれます。エマのいわば共犯者であった読者は、ミス・ベイツに対する自分の理解が表層的であったことに気づかされるのです。読者の認識を新しい次元に連れていってくれるこうしたエピソードに出会うと、文学をしていてよかったとつくづく思います」
カズオ・イシグロの代表作。左から『忘れられた巨人』『わたしを離さないで』『日の名残り』
「カズオ・イシグロの作品を例にもっと話しましょう。イシグロの『慰められぬ人々』には、ヨーロッパのある都市を訪問した主人公のピアニスト、ライダーが、ホテルの駐車場で廃車を見つける場面があります。不思議なことに、この車はなんと子どものときに家にあった車であるとライダーは確信します。そして、誰もいない夜の駐車場で、塗装がはげてサビだらけになったこの車に抱きついて、その車体をいつくしむように撫でるのです。ヘンですよね(笑)。綾瀬はるか主演でテレビドラマ化されたイシグロ原作の『わたしを離さないで』という作品にも、海岸に打ち捨てられた廃船が出てきますが、こうして考え続けると、イシグロの作品には役に立たなくなったモノへの関心がひそんでいることがわかります」 現代の消費主義、あるいは近代化そのものに対する批判もあるが、イシグロはより日常的なレベルで現代におけるモノの存在を問い続けている作家だと中川先生は説明する。
学生の作品例。ジェイン・オースティン『エマ』の続編、ハリー・ポッターのドラコ・マルフォイに出会う冒険やTVドキュメンタリーや映画に触発された創作など多彩。表紙も学生がデザインした。先生のゼミでは、今までに10人近くの学生が創作を含む卒業論文を提出している
ゼミでは、イギリス小説を代表するジェイン・オースティン、ブロンテ姉妹、ヴァージニア・ウルフなど、主として19、20世紀の女性作家の作品を半期に一冊読み進めている。若い女性を主人公とする作品を選ぶことが多いのは、学生にとって身近なためだ。「授業では、些細な気づきでいいのでどんどん発言するように勧めています。作品の読みに唯一の正解はないので何を言ってもいいですよと言うと、びっくりするような予想外の発言が飛び出すこともあります。(笑)むしろ、そうした発言が作品の核心を突いていることがあるのが文学の面白いところです。予習は大前提で、発言の際は読みの根拠も示すというルールを守った上で、自分の読み方に共感してもらえた、他の人の意見を聴いて読みが変わった、という発見のある授業にしたいと思っています」
卒業論文のテーマは、イギリス小説以外に、映像文化、創作なども希望に応じて選ぶことができるという。創作というのは非常にユニークな試みだ。「学生時代に読破できる英語の文学作品は、残念ながらそれほど多くはありません。文学の自由さ、楽しさをなんとか感じてもらえないかと考え続けていました。試しにゼミで『登場人物の日記を書く』などの創作課題を出してみたところ、原作を熱心に読み込み、エッセンスをくみとって嬉々として作品を書く学生が何人も出てきたのです。そこで、創作と作品解説、考察をまとめたものを卒業論文として提出できるようにしました。アカデミック・エッセイを書く人が大半ですが、創作を選んだ場合、筆が止まらなくなりがちなのがぜいたくな悩みです」
先生が在外研究期間に滞在したチョートンハウス・ライブラリーは、作家ジェイン・オースティンゆかりの場所。修復されたエリザベス朝の建築が美しい。ライム・ウォークは菩提樹の散歩道。一時は絶滅が危惧された英国原産のシャイア種の馬や羊たちが憩う広い敷地は、季節感にあふれる。
2017年度、中川先生はイギリスで在外研究に携わった。日本オースティン協会推薦のフェローとして最初に滞在したのはチョートンハウス・ライブラリー。初期イギリス女性作家の研究拠点として知られるが、もともとはジェイン・オースティンの実兄が暮らした邸宅で、近くに暮らすオースティンのお気に入りの場所。ここに滞在した3週間はオースティンが生きた200年前にタイムスリップしたような不思議な感覚だったという。「同時期に滞在したカナダとアメリカの研究者とは生活を共にする中で親しくなり、大いに研究の刺激を受けました。オースティンの貴重な手稿を見せてもらうなど素晴らしい時間でした」
中川先生の研究上の関心は、女性とコミュニケーション、カズオ・イシグロ、明治期の日英文化交流、エコクリティシズムと幅広い。エコクリティシズムとは、簡単にいうと「文学と環境の関わり」を考えること。「D. H. ロレンスの『息子と恋人』という初期作品に、夫婦喧嘩のあげく、夜だというのに家から締め出されてしまった母親が、月に照らされ暗闇にほの白く浮かぶゆりの香りに心奪われ、憤りを忘れる。家に入って鏡を見ると、自分の鼻先に花粉がついていて思わず笑ってしまう、というエピソードがあります。この小説では、人間同士の関係が行き詰まったときに、ふと自然に接したことで、新たな展開がもたらされるという場面がくり返し出てきて、何度読んでも面白い。自然の一部としての人間と、自然を消費する人間。近代の人間は自意識が強く、人間を中心に世界をとらえがちですが、人間と環境との関わり方がいろんな作品にどのように描かれているかを探りたいと思います」